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現在の日本人が共通に持っている「無意識の倫理観」が3つある。それは、
(1)平和であること
(2)お金をきちんと稼ぐこと
(3)人類は平等であること
この倫理観はキリスト教のモーゼの戒律のように石に刻まれて明文化されているものでもないし、六法全集に書かれているものでもない。
しかし、確かに多くの日本人の心の中に刻み込まれているものだ。そして、上記の倫理観を元にして「無意識の美意識」も3つ日本人の脳裏に刻み込まれている。
(1)社会は安全であること
(2)社会は効率的であること
(3)社会は清潔であること
これも、そうあるべきだと誰かが叫んでいるわけでもないし、そうしろと誰かが啓蒙しているわけでもない。しかし、多くの日本人が「当然」として受け入れ、それがあるべき姿だと信じて疑わないものである。
■3つの倫理観と、3つの美意識
日本は1603年まで戦国時代だったが、その後は江戸時代になって長らく平和が続いた。武士は刀を差していたが、実質的には平和国家だったのだ。
明治に入ってからはこの非武装社会は覆されて、日本は一気に軍事国家へと突き進み、暴走していった。
そして、太平洋戦争で敗戦し、東京大空襲と二発の原子力爆弾によって「大日本帝国」は壊滅した。
これによって、日本人の心の中に「軍事」に対する強烈な嫌悪感が芽生えて、それが現在の日本人が共通に持っている「無意識の倫理観」と「無意識の美意識」を生み出したのである。
「国の誇りを持つこと」
「軍事を強化すること」
「覇権を持つこと」
明治や昭和初期の時代に日本人の中にあった意識は捨てられて、1945年以降からは、
「平和でいること」
「お金をきちんと稼ぐこと」
という現実的なものの方が優先されるべきだと考えるようになっていったのだ。
逆に言うと、現代の日本人が持つ「3つの倫理観と3つの美意識」は、第二次世界大戦以降に生まれてきた「倫理観」であり「美意識」であると言える。
多くの日本人は、生まれながらにしてこれを心身に刻み込まれて生きてきたので、それをほとんど「盲信」している状態だったのだ。
■日本は第二次世界大戦の敗戦を経て、3つの倫理観を持った。
それは、平和優先、経済優先、平等優先だ。
これはあくまでも日本独自のものである
この「3つの倫理観」「3つの美意識」は、あまりにも日本人の精神性として強く根付いてしまった。
そして、それが当たり前で、それ以外の価値観があるとは夢にも思わなくなってしまっている。
その結果、日本人はそれを元にして世界を見るので、世界中で何が起きているのか分からなくなってしまうのである。
もしかしたら、あなたもこの「3つの倫理観」「3つの美意識」を盲信しているひとりかもしれない。
日本人であれば、それは無理もないと言える。
それを否定することは、アイデンティティの崩壊につながる可能性がある。それが故に機械の部品のように簡単に他のものと取り替えたりできないのだ。
日本人の感じている「正義」とは何か。実は、それがこの「3つの倫理観」「3つの美意識」である。
「平和優先、経済優先、平等優先」という倫理観に、「安全主義、効率主義、清潔主義」という美意識こそが、まさに日本人が求める正義なのだ。
しかし、これはあくまでも日本独自のものであって、日本でしか通用しないものである。また、日本で受け入れられたとしても、世界では決して受け入れられないものだ。
恐らく、このように言うと多くの日本人は仰天するはずだ。
「平和であることや、経済を優先することや、平等であることがなぜ受け入れられないのか分からない」
と思うはずだ。しかし、世界はそんなものよりも、もっと大切なものがあると考える国も多い。平和よりも、大切なものなどあるのか?
平和よりも、もっと大切なものが世界にはある
平和よりも、大切なもの。イスラム教徒に聞けば、それは「神であり、宗教である」と答えるだろう。
イスラムを侵す者があれば平和より闘争が優先される。
経済よりも宗教的戒律が優先される。
そして、コーランは人間が平等など一言も書いていない。
イスラム教徒の人口は全世界で約15億人。
すなわち、日本の15倍の人口が、平和を優先しないし、経済を優先しないし、平等であることも是としないということだ。すなわち、「価値観が違う」のである。
ところで、人口10億人を抱えるインドではヒンドゥー教が主流となっており、ここにシーク教やイスラム教やジャイナ教が絡んでインドが構成されている(仏教はインドでは少数)。
これらの宗教もまた「平和よりも大切なものは、神であり、宗教である」と考えている。要するに、ここでも日本人の価値観とは違う価値観がある。
日本の人口の10倍の人口が、日本人の持つ価値観とはまったく違う価値観を信じているということだ。
■キリスト教はどうか。キリスト教は平和主義だろうか。
キリスト教が平和主義だったら、中南米は侵略されなかったし、アジア・アフリカは植民地にされなかったし、日本は核爆弾を2発も落とされたりしなかったはずだ。
彼らはキリスト教を信じない異教徒は虐殺しても構わないという特異な意識を持っている。
イラクやアフガニスタンに対する扱いを見ると、今もまたそういった意識を心の中で持ち続けている可能性がある。
キリスト教徒の人口は世界で約20億人。
すなわち、日本の20倍の人口が、平和を優先しないし、経済を優先しないし、平等であることも是としない。すなわち、価値観が違う。
■経済的なものよりも、宗教、信仰、神を優先する世界が多数派だ。
64%は日本人の価値観を理解できない人口
キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教の3大宗教だけで、人口の64%を占めている。
この64%は日本人の価値観を理解できない人口であると言える。また、理解できても容認できないと思う人口でもある。
残りの30%近くも、平和や経済や平等が正しいと思っているかどうか分からない。
むしろ、イデオロギーが正義だとか、戦争で他民族で打ち負かすことが正義であるとか、他から奪うのが正義だとか、自分の一族だけが栄えるのが正義だとか、そのように思っている可能性が高い。
日本の価値観は、世界ではまったく「少数派」である。日本が異質だと言われるのは、そこから来ているのである。日本人が思っている世界と、現実が乖離している。
日本人は驚くかもしれないが、「平和や経済や平等」を世界に押しつけるのは、世界にとっては「冒涜」だと思われる可能性が高い。
なぜか。
「信仰や神よりも平和や経済を優先せよ」というのは、神が侮辱されても信仰が侵されても戦うなということだからだ。
「神の戒律よりも経済的豊かさのほうが重要だ」に至っては、まさに堕落した人間が口走る台詞であり、考え方だと思われても仕方がない。
また、「人類はみんな平等だと思え」というのは、自分の神を信じていない人間も自分と同じレベルであると認めることだからだ。
「平等」とは、「機会が平等であること」
「平和、経済、平等」は、信仰やイデオロギーが優先される社会にとって害悪であり、社会を崩壊させるものである。
もちろん、世界の多くは、ほとんどが平和と経済的な豊かさを望んでいるのは間違いない。しかし、その前に、宗教と戒律とイデオロギーが優先される。
これらが維持された中で、次に平和が来るのであって、平和が優先ではない。
ちなみに、日本以外の国々で言われている「平等」というのは、日本人が言う平等とは程遠い。同じ言葉なのだが、概念が違っている。
世界の人々が言う「平等」とは、「機会が平等であること」を意味している。
全員が同じ収入や、全員が同じ生活水準であることを世界の人々はまったく望んでいない。
「スタートは平等であるべきだが、結果は平等であるべきではない」というのが欧米先進国の考える平等なのである。だから、欧米では「一億総中流」のような考え方はない。
ひとりひとり個人の能力も嗜好も目指す目的も生き方も時代も何もかもが違う。
だから、結果は違って当然で、結果を同じにする平等とはむしろ個人の自由を奪うものであると考える。「機会の平等」であって「結果の平等」はまったく違うものであることを日本人は思い至っていない。
現代の日本的倫理観は、あくまでも現代日本の「正義」なのである。世界に通用しないどころか、世界の多くの民族を激怒させるものだ。
そして、これが異質だと気がついていない日本人は、非常に危険な民族であると思われても仕方がない。
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